僕の弱さとその向き合い方

僕の弱さとその向き合い方

エモい話になりそうです。

久しぶりに投稿するのにいきなりエモい話になりそうな予感がしています。が、今日は良いタイミングだったので書いておこうかなと思います。

これを吐き出しておいた方が整理もつくし、これから生きるのが楽になりそうな気がしたので書いていきます。

人と何かをやる恐怖

先日寝落ちする直前に気づきました。

あぁ、自分は人と一緒に何かをやるということに恐怖があるのだな

ということに。この時は漠然としたショックのようなものと、妙な腹落ち感がありました。なので、改めて「原因分析」と「現状どうしているのか」と「今後どうしていきたいのか」を見つめ直していきます。

恐怖はいくつかに分けられる

まずは、分析です。

人と一緒に何かをやる恐怖。

の恐怖とはなんなのでしょうか。

子供の時に誰かと一緒に遊ぶ時、部活動やサークル活動をやるとき、学園祭をやるとき。こういう時はあまり恐怖を感じたことはなかったように思います。社会人になって友達と山に滑りに行くこと自体だったり、数人で引きこもってものづくりに明け暮れたりするのも全然苦に思ったことはありません。

しかし、最近は合宿を企画する、誰かに何かを手伝ってもらおうとする、会社に人を雇おうとする(まだ嫁しかいないけどw)。これらのことに対面した時に大小ありますが恐怖を感じました。

それぞれ分解して現在どうやって対応しているのか考えてみます。

合宿を企画する恐怖

合宿と名のつくものはたくさんあります。同じ所属の人たちが開催する合宿(運動サークルの夏合宿や企業の経営合宿)ではなく、恐怖を感じるのは弱い繋がりから作られる合宿(プログラミング合宿やセルフリノベお手伝い企画など)が該当します。

これは同じ所属の人たちが開催する場合、強制感が働くため『参加する意思問わずある程度参加人数が確保される』という安心があることに起因しているような気がしています。そのため上述の学園祭とかサークル活動とかはそんなに怖くはないのでしょう。

一方で、弱い繋がりで作られる合宿や〇〇会みたいなのは恐怖感が強いです。この恐怖を言葉で表現すると「人が集まらなかったら嫌な気持ちになるな」とか「盛り上がらなかったらどうしよう」とかが該当します。

なのでスキー旅行の企画する時は最小遂行人数を決めて、至らなければ開催しない。という手段を取って責任を分散しようとしますし、定期的な勉強会とかも全く開催する気になりません。

何故こう思うのか。

掘り下げていくと自分の父親の姿が出てくるようです。

父親は私が小・中学生の頃、近くの体育館を借りてバレーやらバドミントンを毎週開催していました。毎週金曜日、鍵を借りて一人で体育館を開けて町内のお父さんお母さんや子供たちがくるのを待ち、来ればみんなでスポーツをしていました。父自身はバレー以外は未経験者なんですがw

私はそれがとても好きで3兄弟の中で一番遊びに行っていたような気がします。しかし、人がたくさん来る日もあれば全くこないときもあり「誰も来ないねぇ」みたいな会話をした記憶もあります。

これが原体験というか原因っぽいのです。
なんかこう、、、寂しそうに見えたんですよね。
本人がどう思っているのか知らないけど。。。

これを改めて見直してみると、企画して人が集まらなかったら寂しいのです。どこの誰が進んで寂しくなる(可能性がある)ことをやるのか。といったところでしょうか。

そのため最小遂行人数とか決めて逃げ道を作ったり、それでも自分一人で出来る方向に逃げる。というのがこれまでの恐怖に対する接し方でした。

一瞬でこの恐怖振り払うことは難しく、しばらく付き合う必要がありそうな気がしますが、一旦は『おぉ、俺って寂しがり屋だな』という理解をしていくのがよさそうです。あの時の父親のように、バスケが二面張れるくらいの広い体育館にバドミントンコートを1面張って、小学生の私を相手に情け容赦ないバドミントンをして楽しむ。くらいの度量でいこうと思います。

誰かに何かを手伝ってもらおうとする恐怖

誰かに何かを手伝ってもらおうとする場合にも怯みます。例えば『アンケートを取る』とか『エンジニアリングの一部を誰かに手伝ってもらう』とかがそれに当たります。

これは『自分が何も返せないのに何かやってもらうのが申し訳ない』と『評価されるんじゃないか』いう気持ちからくる恐怖です。

・自分から全く返せていないぞ。
・こんなこともできないのかと思われたくないな。
・いいアイデアだとは思うけど否定はされたくないな。

という感情があります。

現時点では、こういう場面では『自力で解決する』ということが多いです(アンケートとかは無理だけど)。おかげで色々できるようになりましたし、サバイバル力は上がった気もします。ただただひたすらに個の力が上がりました。

しかし、よくよく考えてみると自分も雰囲気で手伝ったりすることもありますし、対価問わず手伝うこともあります。実は裏で別な期待が満たされているので満足しているということもあります。別に相手に何か期待していないことも多いし、何の感情も抱いていない時の方が多い気がします。

逆に考えると、世の中には自分みたいな人間もいるので『誰かに何かをお願いしてやってもらうこと』に関してはそんなに構えなくても良さそうですし、返せるものがある時には報酬なりスキルなり会話なり全力返しをしていきます。

また、メリット・デメリットだけの話でもないのです。お願いされた人が楽しめるか・楽しめないかでもいいと、もはや思い始めました。楽しめればなんでもいいんです。楽しめなければ報酬払うくらいでもいい気がします。(その場に応じて適切に応えられるものがあれば応えますが)

ついでに、『速く行くなら一人で行け、遠くへ行くならみんなで行け』という話にもある通り、このままでは独走状態で超近距離走をずっと走る必要があり、その景色は見飽きたというのもあります。

少しずついろんな人に手伝ってもらえるようにお願いできる人間になろうと誓いました。

会社に人を雇おうとする恐怖

もしかするとこれは少数派かもしれません。そもそも人を雇う側にいる人の方が少ないからというのもありますが、世の中の経営者がどういったマインドで雇用というものを考えているのか知らないというのもあります。

今現在人を雇用しようと思っているわけではなく、一緒にワタリドリに属してくれると楽しそうなイメージがあるなーという人は何人かいて、その際に思うことです。

お給料払えなくなったらどうしよう
今より良い環境が用意できる気がしない
そこまで責任取れない

と言ったネガティブなやつです。そこまで背負ってまで今のその人の状態からこっちに来てくれとは言いづらいな。という感じです。もちろん、こちらとしては非常に楽しいことですし、会社消えることなんて微塵も考えてはいませんが。

もちろん、選択はその人個人の責任であり、ぶっちゃけ続けるも辞めるもその人個人の選択です。ただそれだとあまりにもドライだな。と思っています。おそらく自分は自分が思っているよりもウェットな人間なんでしょう。なので所帯共倒れしても笑ってられそうな嫁をまず最初に中に入れたというのがあります。

これまでそういった形で考え引っ込み思案だったんですが、これもまたいろんな人と何かやろうとしたときや、カフェ・ゲストハウスやりはじめたら、どうあがいても首が回らなくなる(ようにしていく)ので、後で悩むより今考えようと思っているところです。

自分で書いててなんですがぶっちゃけ

所帯共倒れしても笑ってられそうな嫁をまず最初に中に入れた

これが真なのかもしれません。言い換えれば

会社ごと総崩れしても笑ってられそうな友人を中に入れる
(友人が先に抜けるだろうけどw後日談として笑い合いたい)

という風に考えるのが最もハッピーそうです。個人的には。

どうでもいい人を雇うという意味ではなく、長く楽しくやっていけそうなメンツと一緒にいたいだけなのかもしれないです。なのでこれについてはちょっと考え方を変えつつその時がやってきた時にそれを軸に考えてみます。

最後に、この恐怖の元はなんなんだろうか。と考えてみます。
もしかすると自分しか該当しない話かもしれないです。

数年前に共同創業で立ち上げた会社。空中分解してバラバラになりました。当時の社長はまだ社長であり、なんかやってるらしいけど詳しくは知りません。当時、中にいたのは自分も含めてほぼ友人。それが社長と内部の対立により今でも若干の遺恨を残したまま、分解しました。

その時から強く思い出される言葉があるのです。
私は母親にこう言われて育ちました。

一生付き合っていける友人を作りなさい。
最後にあなたを助けてくれるのは先に死ぬ私たちではなく、友人になるだろうから。

と。

別に親の言う言葉に従うつもりはないですが、それなりに信条として生きてきた私にとっては、当時の空中分解の騒ぎはなんとも言えない苦痛でした。友人同士が揉めあっているのもストレスでしたし、いくら会社のため世のため人のためとか言いながら、友人も大切にできないような会社にはしたくない。と心に強く思い、強すぎてビビっている。という感じになってしまったようですw

というのが大元の大元っぽいです。

総まとめ

長々書きましたが、人にはいろんな弱さがあるものだと思います。

ただ、その時に『あぁ自分はダメだなぁ』とか『ビビってないでしっかりしろよ』とは思わずに、『こう思っているな』という自省をしたかったので書いてみました。

あと書いていて思ったのは、外からの目線を強く気にしすぎているという点でしょうか。

世の中の人はいろいろ言うのでしょう。
それぞれがそれぞれの眼鏡を通して言うのでしょう。

でも、全人類の眼鏡に叶うような、針の穴より小さい穴を通すようなウルトラCは存在しないので、そもそも最初から考えないようにしています。言うのは自由ですが無視するのも自由です。

また、ぶっちゃけお前が思っているほど誰も何も思っていないよ。ってのもありそうですw

なので自由にやっていきたいと思います。

最後に

何かやる時にはお手伝いをお願いするかもしれないので、
気分でOKって言ってくれるととっても嬉しいです。

以上。