失われた20年と人造人間
失われていく日々
昭和という「レガシー」を引きずった平成30年間の経済停滞を振り返る
こんな記事が上がっていた。日本の企業ってのは昔はすごかったんだなーと思う反面、今は全然勢いについていけなくなってしまったんだなと思う。
失われた20年とかの渦中にいる人はとても大変だったのだろう。団塊の世代と呼ばれる人達が「会社に勤め上げる」とか「苦しくてもそこで踏ん張ってウンタラカンタラ」とか言ってるのは理解はできる。全くもって好きじゃないけど。
イケイケドンドンな時代には良い経営者と実直な労働者みたいな構図がスゴイ合っていそうではある。働けば働くほど収入は増えるし、会社側もお金があるから採用も拓いていく。銀行はお金を貸してくれるから経営者もいろいろな挑戦をすることができる(今はできないってことではないが)。
この時代に働いていた人と話をすると端々から 「何かの型にはまった状態でやらなきゃいけないことをやる」 というマインドがこの時代には強くこびりついているような気がする。昔までは「やらなきゃいけないことをやる」で片付けられていたが、今は改修・改善が行われずそれだけが残ってしまった「やらなくてもいいやらなきゃいけないことをやる」みたいな状態になっている人・組織を見ることがある。本当に無駄だなぁ。と。「やらなきゃいけないことをやる」というところだけ実直にやっていくと徐々に思考力が低下してくる。もしくは諦めがある。風習とか慣習とか呼ばれるあんま好きじゃないやつだ。
私自身はワタリドリをやり色々自由にやっているが仕事がなくなるようなタイミングが来ると漠然と不安になることもある。 仕事をしなくてはならない と思っているところがあるのだ。その時には改めて「なんで不安になるのか」を考えたり「不安の裏には楽しみがありそうだ」ってのを自覚して色々動き回ることにしている。なのでこの不安というのはある意味レーダーとして上手く機能してくれている。
1億人の人造人間
最近海外のエンジニアと話をする機会があり、海外に仕事で行ってきた人の話を聞いた。今の東南アジア圏は日本がイケイケドンドンだった頃のような勢いがあるらしい。きっと彼らも働けば働くほど収入が増えて、知見・知識・教養が上がりそのうち大きな経済圏となっていくのだろう。
日本は 「何かの型にはまった状態でやらなきゃいけないことをやる」 ことができる人間を育成し、大量に生産し、会社・社会に組み込んできた。大量のルールがあって、それを実直に守って、言われたことを実行し、小中高大といけば大企業に入りやすくて、公務員は絶対安定。みたいな。
さて、今の東南アジア圏の方達は今後どうなっていくのだろう。と考えた。
少し前の時代なら、人は人財とか呼ばれて組織を大きくするためにたくさんの人を雇用して回してくとかいう話になったかもしれない。筋肉質な組織とか呼ばれている一人あたりの生産性が高い組織。失われた20年の再来となりそうなフラグが立っているけど。
しかし今は状況が異なる。「何かの型にはまった状態でやらなきゃいけないことをやる」 というのはエンジニアの格好の的だ。小さく新しいことをやろうとしている組織のターゲットにもなるかもしれない。特に人が手間だと認識しやすいものに関しては着手しやすく、処理は機械やITに移っていき、やらなきゃいけないことなんてのはやらなくてもいいことになっていく。
筋肉質な組織は機械に置き換わっていく。筋肉を求められた人々はテクノロジに置き換わっていく。日本にはまだまだ先の話かもしれないけど、今この時代に成長している国の機械化は進めやすいのかもしれない。
日本の1億人の代わりの人造人間はいつになるのだろう。
人造人間の代わりに「ワタリログ」
便利なものとか問題解決型の何かってのは微妙な感じがある。
良し悪しというよりか便利だけど楽しくなさそうみたいな。
なので嫁とは自分たちが楽しいと思えるものを集められるようなことをしようと決めた。その一つが古民家でゲストハウス。それと並行して旅の記録を簡単に残したり集めたり共有したりできるものを作っていくことになった。
とりあえず 「ワタリログ」 と名付けた。
早く飛ばしてあげないとなー。
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