カンボジアに行ってきた -その2-

カンボジアに行ってきた -その2-

前回に引き続きカンボジア旅行記Day2!

朝日の中のアンコールワット!

向こうの方達(観光地だとそんなもんか?)は商売っ気が非常に強い。Day2は朝一からアンコールワットとDay1で行けなかった遺跡群を諸々回ろうという計画をしていた。Day1のトゥクトゥクの運転手と、宿泊先で手配した(キャンセルしたんだが)のトゥクトゥクの運転手二人が朝一ホテルの前で待機しているという珍事件がおきたのだが「ごめんなさーい」って言って終了。

大樹が寺院に巻きついてるやつを見たかったのでDay1でそれなりお腹いっぱいだったのだけど一辺倒全部周ってみる。細かいのは写真を見ていただければいいかなと。

印象的だったのは

物売りの子供達が多い。

向こうに夏休みとか休日というのがどういう風に存在しているのか分からないし、学校行ってる風な子供もいたので全員という訳ではないが。。。5歳くらいの少女が「1 dollar, 1 dollar, I don’t like you say NO… 1 dollar, 1 dollar, pictures, chains pair 2 dollar 2 dollar…..」とエンドレスに遺跡の終わりまでついてくるのは何というか、日本て恵まれてんだなと強く思った瞬間。

結局1ドルでも2ドルでも必要ないものは買わない主義なので徹底的に「No thanks」を連呼して買っていないのだけど。

幸せの定義とは。

人間って選択肢が多い、情報量が多いと不幸せになるんだと。なんかで読んだ。
だから情報統制が厳しい北の国とかでも人々の幸福度はそれなり高いらしい。

カンボジアの売り子も、昔の日本も、もしかすると情報格差のある田舎とかも、大阪のあいりん地区の人らも、都会の人たちよりは幸せなのかもしれない。そう見えなくもない。東京みたいな大きな都市は情報が多すぎて、さらに比較できる対象がたくさんあって、あっちこっちで光り輝いて見えるのだろう。光り輝く幸せに向かって飛ぶ必要性があるように感じるからなのか、いつまでも満たされないように感じるのかもしれない。上には上がいる。

別に他人と比べたり、自分の中に幸せの定義があればいい気もするけど。大きな場所に住みたいとか、美味しいものを毎日食べたいとかそういう欲求がない訳ではないから難しい。

自分なりの幸せとかある程度見つかってはいるが常に疑問が湧いてくる。

その疑問と共にアレコレ悩みながらやりたいことをやるってのが幸せなのかなー。
結局どこかに眠っている原体験に戻るのであれば、アッチいったりコッチいったりしても最終的には売り子がものを売っていたような自分の原体験に回帰してそこに幸せがあるのかもしれないと思ったりする。

ということでその後プノンペンに戻り少しグダグダしてDay2は終了!