何のために作るのか

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株式会社ワタリドリ誕生で書いたが、前身となった会社では自社サービス開発をしていた。前身の会社は、設立の段階から「なんかお金になりそうなことやろうぜ」という主目的があった。だからとりあえずパイの大きそうなモノを選択して作った。

そこに特別愛情とか執着とかあるわけでもない領域に対してサービスを作って展開した。
個人的にはサービス開発するという過程が好きだったのでモノは出来上がった。

どうなっていったのか。

結局はそこに想いも情熱も信念もないわけだ。

xxxはダメなサービス。と言われればいちいち凹み。
xxxの利用率が上がらない。となれば速攻別なサービス作ろうかなと思ったり。
追加の機能開発は「他のyyyで見たような機能」が乗ってくる。
(SNS連携とかクーポンとか)

こうなってくると、

作っても否定されてどんどん萎える。
利用率が上がらないので浮気しようとする。
追加の機能が自分から出てこないから外部サービスを観察するようになる。

「何のために」「誰のために」作ってんだろうという感情が拭えない。

願わくば違う形であってほしい。

否定されても改善だと受け止めて真摯に直す、改善する。
利用率上がらないのを耐えてユーザー調査する。
追加機能は「これが自分が思う最強のyyyだ」というのを作る。

そうなるためには情熱というか熱狂というか「使命感」か「楽しさ」が必要なのだろう。

前進となった会社では最終的に、「お金も必要だけどそのために魂捧げられるほどでもない」という。悲しいかな目的と大きくずれているのに気づきすっぱり辞めるのであった。

だから今。

そんな反省というか気づきを得て、「誰かのため」「何かのため」になる開発したり、アクションを起こしたりしたいなというのを考えた。けどあまりコレっぽいってのは出てこなかった。

実験的に「無償で誰かのために力を貸す」というのもやってみた。どうやらそれもまぁまぁレベルではあるが、ダラダラと長くなるのはいただけないし、こちらに他に得るものがないのも辛い話になってくる。これはこれで何かしらリターンが必要なのだ。

そんなこんなな話を嫁とたくさんした。少しだけ明確になったことがある。

まず「自分が楽しいこと、ワクワクすること」​これが大切だ。
そして「嫁が楽しそうにしていること、ワクワクすること」これが次に大切だ。

これからもそんな話をたくさんするんだろう。

直近はアイデアリストとか気づきリストから、面白そうだなというのを形にしてみたり、いろんな人の話を聞いたり、知らんところに行ってみたりというのをやってみようかなと。